木彫 太田利治

井波彫刻
Commentary

 井波彫刻の発祥は、1390年(明徳元年)に建立された井波別院瑞泉寺が何度も焼失し、その度井波の宮大工により再建されてきたことが大きく関わっている。宝暦・安永年間(1763年〜1774年)の瑞泉寺の再建には、御用彫刻師の前川三四郎が京都の本願寺より派遣されたことにより、井波の大工が師事し教えを被り、その後寺社彫刻の技法が、欄間や獅子頭、天神様(菅原道真)などの工芸品に派生し今日まで受け継がれている。また4年に一度「南砺市いなみ国際木彫刻キャンプ」が開催されている。
 伝統的工芸品産業の振興に関する法律(伝産法・1974年(昭和49年)5月25日法律第57号)に基づき、1975年(昭和50年)に国の伝統的工芸品として通商産業大臣(現 経済産業大臣)より井波彫刻協同組合が産地組合として指定(第2次)を受ける。2018年(平成30年)5月24日には、井波彫刻を核とした「宮大工の鑿(のみ)一丁から生まれた木彫刻美術館・井波」として日本遺産に認定された。
 現在、伝統工芸士(伝産法に基づく資格)、一級井波木彫刻士(厚生労働大臣認定資格)をはじめ、組合員を含め約250名もの彫刻職人が集中しているのは世界的にも珍しく、瑞泉寺の参道であり観光地化している八日町通り以外の住宅地でも木彫りの槌の音が聞こえ、この音が「井波の木彫りの音」として日本の音風景100選に選定されている。
 また、1947年(昭和22年)に設立された全国唯一の木彫の専修学校、「職業訓練法人井波彫刻工芸協会 井波彫刻工芸高等職業訓練校」があり、師匠に弟子入りした生徒が、デッサンや彫刻の基礎などを学ぶ。

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井波彫刻の歴史

明徳元年(1390) 本願寺五代綽如上人越中国井波に瑞泉寺を建立する。
天正9年(1581) 瑞泉寺、佐々成政の兵火に罹り焼失する。
文禄3年(1594) 前田利長公から、井波大工10人に居屋敷米を扶持される(井波拝領地大工)。その後、伏見城の普請、関ヶ原の合戦などにおいて加賀藩の御用をつとめる。
慶長16年(1611) 瑞泉寺の諸堂、井波拝領地大工の手によって再建され、荒彫りの彫刻を施す。
宝歴12年 井波大火、瑞泉寺類焼する。
安永3年(1774) 瑞泉寺再建、井波拝領地大工が京都本願寺御用彫刻師前川三四郎から、彫刻の技法を本格的に習得する。
文化1年(1804) 京都彫刻師前川三四郎、瑞泉寺山門正面唐狭間雲水一疋龍を彫刻。
明治初期(1870年代) この期より、一般住宅欄間等の新分野を開拓、彫刻を専業とする者が現れる。
明治12年(1879) 瑞泉寺本堂、太子堂を焼失する。
明治18年(1885) 瑞泉寺本堂竣工する。
明治19年(1886) 岩倉理八、京都本願寺より彫刻主任に任命される。
大正3年(1914) サンフランシスコ万国博覧会に出品の初代大島五雲作書院欄間が名誉金賞を受賞する。
大正7年(1918) 瑞泉寺太子堂竣工する。この頃より彫刻師は多くの門弟を養成、従事者数は飛躍的に増え始める。
昭和6年(1931) 3月、井波彫工会員により台北西本願寺別院彫刻完成。
昭和8年(1933) 東京築地本願寺の彫刻に18人の井波彫刻師が参加する。
昭和17年 11月、富山県木彫刻協同組合を創設、理事長綿貫佐民。井波彫刻は堂塔建築と結んで発展し、欄間、置物さらに衝立、パネル等に活路を開き民間からの需要が増加する。商工省工芸展、文展等に出品、入選者が現れ工芸作家が台頭する。戦争の激化と共に苦難の道をたどるも、伝統技術を守り現在に伝える。
昭和22年(1947) 7月、富山県木彫刻工業協同組合を設立。井波彫刻技能者養成所を開設する。(現訓練校)
昭和50年(1975) 通産省から「伝統的工芸品」として指定を受ける。
昭和52年(1977) 名称を井波彫刻協同組合に改める。
昭和54年(1979) 井波彫刻伝統産業会館、井波木彫刻工芸高等職業訓練校が完工する。
平成3年(1991) いなみ国際木彫刻キャンプ開催、世界12カ国より参加。
平成5年(1993) 井波彫刻総合会館完工する。この道一筋に技能の研鑽につとめ、大臣表彰、褒賞、叙勲を受けた名工が多く出る。日展を始め、各種の中央、地方展の入選者80名を数え、日展審査員賞、会員、評議員等の有名作家も多く輩出、美術工芸品としての評価が高まる。井波彫刻に魅せられ、全国各地から入門する若者が続き、今では彫刻技術者300人を超え全国一を誇る産地として発展する。
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